昭和五十六年六月十二日 朝の御理解  


御理解第九十二節「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」


 昨日、研修が終わりましてから、あのう竹内先生が今度“あいよかけよ”のですかね、あのう御本が出とります今信徒会から、その中にこんな記事が出ておりますからというて、それを読んで呉れました。聞かせて頂いておりましたら、その中に教祖の神様のみ教えが、今まで未発表であったものが今度発表になる。その中に「人間は土(どろ)より出でて土に帰る」という御理解が四つか五つございました。それを私は頂かせてもらいながら、本当に合楽で頂いておる事がいかに教祖様の御信心をまともにいただいておるかと、まともに教えて頂いているかという事を、改めて感じさせて頂きました。そういうみ教えがはあ、あってそのみ教えに基づいて頂いたのではない。合楽の場合にはやはり神様。
 土の信心、土より出でて土に帰るという事。だから、その道中とても土の心で生きていかねばいけないと、合楽では説くんです。そこを説いちゃないです。
 人間は土から出でて土に帰るという事は四つか五つかの御理解に出てくるんですですけれども、だからその道中とても土の心で行かなければいけないよと、こんなに間違いのないおかげの頂けれる、云うならばみ教えはないと思うくらいです。こりゃ、どのみ教え頂いてもそう思うんですけれども、昨日特にそう感じましたね。
 同じランドセルをかろうて毎日子供達が学校へまいります。同じ格好で同じ教科書を持って勉強しに行くんですけれどもね。よく覚えてくる子も居りゃあ、何を習うたか分からんような事で帰ってくる子供もございますね。
 合楽でどのように素晴らしい、云うならばここではね、神様というか、この神様という方は打ち込めば打ち込んだだけのおかげが受けられるぞとね。例えば教会の先生がどういう努力すれば努力する程、云うならば信者が助かる。早起きすれば早起きする程信者も早くお参りするようになる。早い遅いにかかわるぞとおっしゃっておられる。
 私はこの御教えはそういうふうに頂くべきですね。だから打ち込み損というかね、という事は無いと思うですね。その自分の心で打ち込んでいくその打ち込み方一つ、ただ毎日十何年間学校に行きましたというだけでね、一年間勉強した人よりか覚えて無いという人があるかも知れませんよね。どうしても神様の生き生きした働きを頂く事の為にですね。本気で例えばこのようにも間違いの無い。私共はこのように間違いのない、もう本当に前(以前)にも先にもこういう宗教家が出られるということは無い。私共も教祖生神金光大神をそのように頂いておりますね。
 その教祖様を信ずるなら、言うておられる事も又、信じなければなりませんね。そんならその教祖様がもし今この世に居られたら、合楽で言っとるような御理解をお説きになるだろうと思われるような節々が合楽にはいくらも有りましょうが。過去例えば私共はその人間が土から出て来て土に帰るてんなんてんという御理解をこの教典から発見する事は出来なかった。ところが、最近新たに出るというその教典の中にはそれがはっきり謳ってある。土より出でて土に帰るという事が。
 それを合楽では、そういうみお教えが出る前に伝えて居るという事は、いかに教祖の心を心としての天地の親神様を間違いなく表させて頂こうとする働きがあるかという事を、皆さんが先ずは信じなければいけないと思うね。そしてなら今のそのみ教えだけでも、教祖様はだからその道中とても土の心でいけよとは、おっしゃってないです。合楽ではその先人間は土より出でて土に帰るのだ、だからその道中とても土の心でいくならば、いよいよ完璧、云うなら確かにこの世はあの世の為にあったと分からせて頂く程しのお徳もあの世にもって行くのも充分頂いていけれるであろう。その打ち込み方はです、同じ学校になら子供達が通うて十人行けば十人その勉強次第で云うならば頭脳次第でと云ってもいいかも知れません。
 ならここでは、云うなら通うて来ておってもその心次第でその受け止め方、それを行じ始めていくというその精進によってです、おかげが違ってくるね。ですから私共教祖様のみ教えをそういう素晴らしいお方であったとも、それこそ開闢以来こういうまあ宗教家とは言えんかも知れませんね。方が本当に出られて世の中にこういう教えを残しておって下さったと、そういう教えをです、間違いなく合楽では伝えておるという事。
 言外の言というか教祖様のお言葉のもういっちょ奥の方まで合楽では説かせて頂いて居るところにね、合楽の信心があると思うんですよ。
 ですからそれをなら勉強しておってもね、それを勉強しなかったら同じ雑のうかろうちから、そして毎日何年間か通うてからね、そして覚えておったのは結局頭のよい人は覚えておる。頭の悪い人は一つも覚えて居ない。ね、頭次第だというように、なら信心次第と仰せられるのですから、その心次第取り組み方次第によって力も徳も、云うならおかげも変わって来るのだから、このように間違いのないみ教えであるからね。本気でそれを行じていかなければならない。
 心生き生きと神様へ向けだしますとね、確かに神様がその通りに生き生きと現れて下さるのですこの神様は。
 ここの合楽の田中さんが此の頃から長い間病院へ入院しておられて退院のおかげ頂いて、まだ大事にしておられますから、御祈念の後位にお参りになる。それでも五分づつでも十分づつでも早くお参りさせてもろうてね、出来たら朝の御祈念にでもお参りが出来るように元の信心にもどらわねばならんという、そういう心をもって毎日お参りをされる。
 毎日云うならば実験実証のお届けがございます。そして最近もう驚く程にある事は、おいさみが行く所行く所においさみがひどいという事ですね。兎に角例えばなら以前は毎朝、朝の参拝をして居られた。けれどもまあ体がまだ本当の調子じゃないから、まあそれでもお参りをさせて頂いて、それでもやっぱ、五分づつでも十分づつでも気分良う目覚ましのおかげを頂いて、はあ今日は朝の御祈念にお参りしようというその精進がね、もう生きた心なんです。ただ神様そうした生き生きした働きを周辺に表して下さるわけですよね。だからもうそれが楽しみ。もう神様のまあ云うなら一つのリズムに乗って日々生活させて頂いとる事が有り難いという毎日お届けがございますがね。少しづつでも一歩でも前進しようというその精進の心なんですね。今日はみ教えをこう行じさせてもろうたら今日このような実験がと。
 守り守りの力によって神の比礼が違うと言われるが、結局守り守りではなくて信者の一人一人のやり方によって、同じお参りをしておってもその心次第、精進次第で違うのぞという事も言える訳でしょうが。
 そして合楽では今日皆さんにこのように間違いのないみ教え、それを本気で勉強するという気になって自分のものにしていったらね。間違いのない事が素晴らしく力を受けていく、お徳を受けていく事の上にも、おかげを受けていく上にも現れてくるだろう。頭脳次第であるように信心はどこまでも心次第だから心次第というて、なら心がまあ素晴らしい美しい人だというてもですね。それこそ心行、信行、家業の行がね、本当に出来るそういうしかも一歩づつでも前進しようとする意欲が神様に心を向ける事になら神様も又こちらへ心を向けて下さる。
 確かに早ければ早いおかげが受けられる。もう本当に合わせ鏡のようなものである。自分だけはどうしてこんなにおかげが受けられんだろうかという、云うならば信心、結局どれ程にここで間違いのないおかげを頂いておるおかげ、いわゆる教えをどれだけ心の上に頂いて実験実証しているかという事を思うてみて、いよいよもう兎に角、打ち込めば打ち込んだだけおかげが受けられるという実証をしないとね。
 あの人んごと打ち込んで参りござるばってんおかげはいっちょん頂きなさらんというならちょっとおかしいでしょうがね。人ぎきもよくないでしょう。成る程、打ち込みなさるだけ問題は心で打ち込む事が先ず大事だという。その芯になるものは昨日から私が感じておりますようにね、人間は土より出でて土に帰る。だからその道中とても土の心でいけよと、天地日月の心を説く訳です。成り行きを大切に尊べと言うふうに説くのです。土の心ですね。土の心をいよいよ本気で身につけさせてもらう修行をさせてもらいたいと思います。  どうぞ。